ぼくりりのアルバム「ノアズアーク」の歌詞の意味[after that]編2
ぼくりりのアルバム「Noah's Ark」の歌詞の意味[after that]編の続きです。
前編でぼくりりは「after that」で「その後」の世界を描いてるけど、それが本当に見えてるわけではないこと、マイノリティの感覚がわからないぼくりりはまだちょっと子供だってこと、などを書きました。
なので今回はこの曲と小沢健二の「流動体」との関係もちょっと書く予定。
前回の記事(ちょっと間あいてしまった)
曲はこれ
失敗しても関係ないし
誰の目も気にしない
新しい世界では、失敗してもいい、他人の目を気にして過ごすこともない。
(誰かの目を気にする表現は結構よく出て来るので、ぼくりりの中にはまだ人目を気にしている自分がいるのかなと思います。)
歪な僕らは歪なままで進んでいこう
人間が人間らしく、世の中からからはみ出してしまっていても、そのままでいられる世界。
そんな世界を進んで行こう。
これがノアの方舟の今の解釈。
ところで小沢健二が今年「流動体について」を出したりずっと「うさぎ!」を書いたりしているけど、「その後」の世界は描かない。
小沢健二には何か見えてるものがあるからそれを目指して書き物をしたり曲作ったりしてるんだろうな、っていうのはわかるんだけど、「その先」は出さない。
その点、読者、リスナーは、もやっとするんだけど、
で、この曲は(ちょっとぼくりりの主観が入ってるけど)ある意味小沢健二の「流動体」や「うさぎ!」の「その後」を描いてしまってる。
その点、ぼくりりが「その後」の世界をぼんと出しちゃったのはすごいと思っているけど、
濁った景色が澄み渡る
鮮やかな色が移り変わる
この辺りの歌詞には、トレースしたものが透けてしまう感じがあります。
(その辺「Be Noble (re-build)の方がよくできてる)
本人にビジョンが見えてないからそうならざるを得ないんだと思う。
表現としてもうちょっと自分の中で揉んでから出してくれたら「この子ほんとにわかってるのかも」って騙されちゃったかもしれない。
けど、自分で見えてないビジョンを描くのって難しいよね。フィクションならなんでもありだけど。
小沢健二も、ぼくりりの「ノアズアーク」で描かれてるようなことって、知識としては知ってはいると思うんです。
ぼんやり生きてるわたしが知ってるのに知らないはずないんじゃないかと。
小沢健二は過去に自分は元キリスト教徒、って言ってます。
過去の歌詞にも祈り、光、神様がよく出てきます。
(でも「流動体」の「神」は、小沢健二がこれまでの曲で書いてきた「神様」とちょっと違っていて、これも前に書いたと思う。)
だから元キリスト教徒としてそこまで言えない、恐れ多くて、っていうのもあるかもしれないけど、
自分に具体的なビジョンとして見えてないものを表現として出すのは誠実じゃない、という考えも(今の小沢健二なら)多分あるのではないかと思います。
ぼくりりも「after that」はいいものを見つけてきたと思うけど、本当はどうなるのかわかっていない。
ぼくりりはその点何も考えずに「これいけるんじゃん?」って思いつきのままこのアルバムを作って勢いで出してしまった感は拭えないです。
ただ、何も考えてないからこういうの出せちゃった、という面もあるんだよね。
(若さの勢いとも若気の至りともいう)
歌詞には載ってませんが、ぼくりりが最後に
「Thank you for listening」って呟いている声が入っているのでとりあえずここは許す。
どうでもいいことに費やした日々
無駄にした分を取り返すなんて意味ないこと
この前まで「時間が限られていると知って尚湯水のように垂れ流した」って嫌味を言ってたのが、
でももう過ぎたことはしょうがないよね、って変わってます。
あと、
簡単に生きて簡単に死のうよ
やりたいことがなかったら寝ていればいいよ
この辺りちょっと好きって思うのは、正直な感じがするからかな。
で、この「after that」にたどりつくために「Be Noble」に戻る。
そんな構成です。ほんとよくできてる。
あー、ぼくりりの歌詞、言動みてたらついまたフリッパーズと比較したくなってきた。
その話は別に記事にします。(忘れなければ。でも「Mellow Waves」の話するからそこでいやでもフリッパーズの話はでてくる。小山田がこだわってるから)
あと、スカイズザリミットからこの話始まってるからそれを締めて、
色々話が散らばったから目次的なものを作って、このアルバム「Noah's Ark」の全体像的なものを書きます。
ceroとか、Corneliusとか、色々話が平行して遅くなってすみません。