ぼくりりのアルバム「ノアズアーク」の歌詞の意味[Noah’s Ark]編3
ぼくりりのアルバム「ノアズアーク」の歌詞の意味[Noah’s Ark]編の続きの続き(最終回)です。
前回の記事
前回若干脱線したので話を戻そう。
ぼくりりは、大洪水の後は、「意思を持った人びと」だけが朝を迎えることができる、
つまり感性(ぼくりり的には自由意思)を放棄しなかった人びとにだけ救いが始まる、と言っています。
それから、ぼくりりは大洪水=情報の濁流と定義しているようで、私は最初アルバムを聴いた時に「大洪水」はそれ以上のものを想定していたので、それを知ったときちょっと拍子抜けはしてしまいした。
それにしては引っ張り出してきたものが大きすぎるし、結構大それたことを言っているから、信仰心を持ってる人に対しても失礼な話でしょう。
(だから、キリスト教徒、って言ってる人にこのアルバムの話していいかは、かなり迷う)
でも、Liarの件もあるし、それも若干フェイクかなとも思うんです。
「虚ろな誇大妄想を紹介しよう(Liar)」って入っているし、本当はもっと大きい話をしたかったんじゃないかな。
でもちょっとそこまで言う勇気はなかった。
だから「愚かな企てはくたばった 言葉も色褪せる 決して伝わらない想い」なのかと思って聴いています。
壮大なテーマを選んだだけあって、一曲が1本の映画のような作りになっていて、ぼくりりも要所要所で歌い方を変えてますし、声にエフェクトをかけたり、エコーをかけたり、神モード、嘆きモード、ラップ、揺らぎモード・・・etc.色々なりきって演じてくれてます。
ぼくりりも頑張ったと思う。
神の光臨を感じる音で始まり、弦も入ってるし、物語が転換するところで波の音が入ったり、きらきら輝く朝日を感じる音が入ったり、サウンドも凝ってます。
ライブよりCDや音源で聴いたほうが良さそうな曲。
ただライブでやると、別な意味が出て来る曲でもある。
ノアの方舟を現代で再解釈するとこうなるかも、っていう話はちょっと前からあったんですけど
この曲に関しては、それを「音楽」という媒体でやったことについて、とても意味があると思っています。
もしこれをceroとかSuchmosのそれこそ「STAY TUNE」みたいなノれる曲に昇華しちゃってたらそれこそもう重大事件になるところだったと思う。
・・だったんだけど、それは未遂に終わった気がする、今のところ。
映画みたい、って言ったけど、映画って、中に入ったらすごく揺さぶられるけど、映画館出たら現実に戻っちゃうでしょう。
それと同じで、この曲も、聞き終わったら現実に戻っちゃうんです。
だからそういう意味ですごく「惜しい」。
「Noah’s Ark」をライブでやっている映像をちょっと見たことあるけど、この曲だとやっぱりお客さんは乗れないみたいなのね。
イントロのキラキラはいい。
(イントロのキラキラはいい、けど、歌い始めがこれなので・・・)
最初乗るつもりだったお客さんが、曲が始まってぼくりりが歌い出したら「え、どうしよう」ってなっちゃってる。(映像がフェスのだから、ホームじゃないっていうのもある)
ぼくりりはたまに同じ曲を「○○○(re-build)」ってことをするから、例えばこのアルバムのリード曲「Be Noble」をシングルカットして「Be Noble(re-build)」みたいなことをするんだけど、「Be Noble」より「Be Noble(re-build)」の方が良い、と思うことがある。
この曲も「Noar’s Ark (re-build)」とかで徹底的にライブでノれるような別バージョン作ったら何かが変わるかも?
と思うんだけど、ぼくりりの場合、自分で曲作れない、っていうのもあって、やっぱり歌詞・歌唱と曲(バックトラック)がどことなく分離してる感じが常にあります。
分離してるは言い過ぎかもしれないけど、歌と曲の一体感(グルーヴって言ってもいいかも)がぼくりりの曲には少し足りない。ceroとかと比べちゃうと。
(日本人でグルーヴを作れるバンド・グループ・音楽家がそもそも限られてるかもってところもある。小沢健二の「流動体」はグルーヴではないけど曲と歌詞の一体感はすごくあるなと思っています。)
なんで急にceroが出て来たかっていうと、ceroの「My Lost City」っていうアルバムを思い出したのです。このアルバムもそういえば大洪水が起こってたなって。
で、この話をちょっと後で書こうかなと。
では大洪水の引いた後、どんな世界が待っているのか? 次の曲「After That」に答えがあります。